マテーラ、サッシと洞窟に生きる

Murgia

マテーラは世界でも有数の長い歴史を持つ古い町です。事実、新石器 時代から今日まで約7,000年の間、 この場所では絶えることなく様々な 出来事が繰り広げられてきました。 この古い町は、マテーラのグラビー ナと呼ばれる石灰岩の侵食によりつ くられた巨大な渓谷の淵に生まれ、 その岩との密接なつながりの中で発 展してきました。 このグラビーナ渓谷を挟んだマテ ーラの対岸、ムルジャ高原の頂上付 近にムルジャ・ティモーネ(Murgia Timone)、ムルジェッキア (Murgecchia)という旧石器時代の 集落跡があることはよく知られてお り、

 

 

 

I Sassiまた簡単に探しあてることがで きます。その時代、洞窟はやはり住 居として使用されていました。今日 でも変わらぬ形で使用されるムルジ ャ高原の広大な岩場地帯がもたらす 石灰岩のブロックを利用しながら文 明が発達するうちに、岩場の中に外 にと洞窟を拡げるように築かれた町 が生まれました。周知のようにマテーラは紀元前6 世紀、ターラント、メタポント、ク ロトーネなどとともに大ギリシャの 一大植民地下にありました。チビタ (Civita)と呼ばれるいわゆる町が初 めて“建設された”場所は、サッシ 地区の中心にあたります。今日その チビタには13世紀に建築された大 聖堂がそびえています。

 

 

 

 

 

chigr640.jpg古代ローマ時代、チビタス (CIVITAS;ラテン語、町の意。)と 呼ばれていたチビタは城壁で堅固に 守られていましたが、その眼下には 無数の洞窟ととりわけ巨大な岩塊の 連なる無防備な空間が広がっていま した。マテーラの旧市街地の2つの 地区がサッシ(Sassi)と呼ばれるの はここに由来しています。 ※ Sassi:岩、岩山、岩壁を意味 するイタリア語Sasso(サッソ)の 複数形 古代ローマ時代、この2つの僻地に 小集落はありましたが、特に中世に 入るとチビタに倣いちょうど骨を接 ぐように岩場にブロックが接ぎ合わ され、拡大し、サッソ・カヴェオー ゾ地区とサッソ・バリサーノ地区が 形成されてゆきます。

 

 

 

 

 

sluc640.jpgマテーラの町は常に岩場を掘削し て築いた町、サッシをはらんできま したが、サッシは、特に諸々の歴史 の移り変わり、経済の推移に呼応し て実に様々に利用されてきました。 ある時期、洞窟はその大いなる機能 が再認識されますが、それは7世紀 初頭のベネディクト派あるいはギリ シア・ビザンティン派の修道士の山 岳宗教社会の時代までさかのぼりま す。特にカッパドキア、アナトリア、 アルメニアなどから渡ってきた修道 士により、高度な石灰岩掘削技術の 融合した洞窟の中で暮らすという文 化がもたらされます。

 

 

 

 

 

vigro640.jpgこのようにして、岩場の中に掘り 抜かれた礼拝堂や教会、修道院が連 なる岩窟教会、修道士が集団で、ま たは独り祈りを捧げた洞窟が生まれ ました。しかしサッシ住民は、経済 状況が許す限りは基本的に洞窟を集 積場やワインの貯蔵庫、家畜小屋と して利用しながら、洞窟から骨接ぎ するように外へ外へと空間を広げ続 けました。 マテーラはプッリャ州オートラン ドに属していましたが、1663年バジ リカータ州に吸収されると同時に、 1806年ポテンツァに移動するまで州 都になります。この時期がマテーラ の最高の時代でした。

 

 

 

 

 

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それはその時代を象徴するバロッ ク様式の教会や多くの修道院のよう な政治的、宗教的建造物が証明して おり、今日、それらは公共機関や文 化施設の場となっています。1810年 代以降1952年まで、マテーラは度重 なる農業経済のひっ迫、州都がポテ ンツァに移動したことにより行政機 能を失ったことなどから長い衰退期 を過ごします。 この零落は多くの貧しい人々に、 洞窟を住居として、人も家畜もいっ しょくたに暮すのを余儀なくせざる を得ないほど深刻なものでした。貧 窮とともに人口の圧迫が、かつて部 屋だった洞窟を洞窟の住居として、 また家畜小屋だった洞窟を家畜小屋 と一体の洞窟の住居に変えるのを加 速させました。

 

 

une1.gifこの痛ましい暮らしは1952年まで続きますが、時のイタリア首相ア ルチデ・デ・ガスペリが定めたサッシに対する最初の特別令が出され ると同時に、建築家ルイジ・ピッチナートが構想をまとめたマテーラ の都市調整計画に基づいて建設された新市街地へと15,000人を越える サッシ住民が移動をはじめます。マテーラは当時人口3万人で、1953 年から1968年にかけて全人口の半数もの人がサッシ地区から移動し ていきました。イタリア政府が新興地に新しい住居を供給する ことで、この移動は現実のものとなりましたが、 同時に政府は廃墟と化した住居群の所有者になり ます。事実サッシ地区のおよそ70%は今日政府の 国有財産になっています。 1993年サッシはUNESCO国連教育科学文化機関が 保護する人類世界遺産に登録されます。現在、そ のすばらしい環境としての、歴史としての、芸術 としての資産、またこの壮大な記念碑を活かすよ うに多角的な修復活動、建造物の再生活動の対象 となっています。